映画雑感−フランスの4大監督
               
高橋 勤  36年法卒 名誉会長

  当稲門会では映画鑑賞会を一昨年から開催することとなり、往年の名画、思い出の映画を上映できればと始められました。戦後間もない混乱の中、娯楽と言えば映画の時代であった当時、戦前の洋画がぞくぞくと上映されるようになり、その中で印象に残り、感動をうけたのはフランス映画でした。


 戦前のフランス映画を語るとき、やはり4大監督の名を挙げねばならないと思います。最初に、粋で軽妙さが持ち味のルネ・クレール監督です。「パリの屋根の下」は歌と音楽と効果音を有効に生かし、その手法は新鮮であり、シャンソンもとり入れ、この作はトーキー初期の代表的な映画となりました。喜劇映画にもその才能を発揮、音楽的・喜劇的な「ル・ミリオン」と「自由を我等に」を製作。「自由を我等に」は感覚的にもテーマ的にも新しく、現在にも通用する映画です。オートメ化された工場でベルトコンベアの流れ作業と格闘する情景は、チャップリンが「モダン・タイムス」で模倣したと騒がれた作品です。現代に対する風刺、楽天的というか、小粋というかスマートな映画でした。明るい太陽の下、自由を謳歌し人生とはかくも楽しいものかと放浪の主人公二人が田舎道を楽しげに歩き去るシーンは印象に残ったラストでした
。「巴里際」は淡いユーモアとセンチメンタリズム、ほのかな哀愁と詩情、パリの場末の情緒をたたえた名画です。クレールは、エスプリとアイロニーの混ざりあったバランスのとれた監督でした。


 ジュリアン・デュヴィヴィエはクレールと対照的にリアリズム映画の基礎を築いた監督です。運命の非常に巻き込まれ、人生に絶望したペシミズムにみちた映画を多く作っています。ジュール・ルナールの原作を映画化した「にんじん」。親友同士が皮肉な運命により一人は恋人と巴里へ、一人は友と恋する人を失い傷心を抱き、移民船にてカナダに旅立つ「商船テナシチー」。映画を見た後の感銘は、そこには人生があり、運命に翻弄されて行く人間のドラマがあった。ジャン・ギャバン主演の作品のうちで「地の果てを行く」は彼のペシミズムがよくでた、すぐれた映画です。殺人を犯してモロッコの外人部隊に身を投じた犯人、執拗に追う刑事。過酷な自然の中でぎりぎりの人間関係を追いつめていく。先頭で敵弾に斃れた犯人に、ただの男にたちかえって死体にとりすがって号泣する刑事。「望郷」ペペルモコは甘ったるい大衆的な作品で、ただラストシーンの鮮烈な印象は忘れがたい。最後に「舞踏会の手帳」、舞踏会デビューで踊った相手に若き日の追憶を求めて男性を歴訪するオムニバス映画です。歳月の流れのなかで現れ、消えてゆく人生の虚実をテーマとしています。訪れた男性はすべて青春の夢破れた無残の人生を歩んでいる現実に、絶望するヒロイン。人生の空しさを描いたデュヴィヴィエの名作のひとつです。


 つぎにジャック・フェデー監督です。作風はリアリズムです。純粋な作家であり、寡作な監督でフランスに3本の作品を残しています。「外人部隊」「ミモサ館」「女だけの都」です。いずれも高い評価を受けており、フェデーの名声を後世に残しています。この時代のフランス映画の最高傑作はジャン・ルノアル監督の「大いなる幻影」でしょう。ドイツの捕虜収容所。雑多の階層のフランス軍捕虜の人間模様と、それを監視するドイツ人将校が、国家意識を超えた人間と人間のふれあいにとけこんでいく姿を淡々と描いたヒューマニズムあふれる名作です。最大の感銘を受けた映画の一つです。


 フランスの4大監督について簡単に触れてきましたが、ここに取り上げた作品を戦前の映画であり、現在の進歩した映画技術、社会事情の発展、豊かになった生活、すべての面で変化した現代に、今上映して鑑賞に耐えうるものかと思っています。しかしこれらの作品は古典的映画として評価されると思っています。